なんで都城に?旭サービスの謎~橘百貨店ごしに見えた宮崎の話その1~
「延岡、日向、都城の旭サービスです!」
平成元年あたりの宮崎で、テレビから流れてくる朗々とした女性ナレーションのこんなCMを目にした方、多かったのではないでしょうか?
ローカルCMあるあるな静止画のそれには、大きな店舗の写真がドーンと使われていたように思います。
当時の宮崎市内の高校生はこう思っていました。
と、いうことで今回は当時のそんな謎を追ってみました。
そしたら、平成ではなく「昭和の宮崎市」の一時代を駆け抜けた橘百貨店のことに辿り着いてしまったので、これについても少し書いてみようと思います。
そもそも旭サービスとはどんなお店だったのか?
平成元年あたりの宮崎市内の高校生にとって、「県北の友だちが旭化成の店って言ってたなー」くらいの、ボンヤリと知ってるようで知らないお店だった旭サービス。どんなお店だったのかをあらためてご紹介します。
まず、旭サービスの正式名称は旭化成サービスなんですね。
そして旭化成サービスの成り立ちについて。
『流通会社年鑑』1976年(日本経済新聞社,1975. 国立国会図書館デジタルコレクション)によると、もともとは大正年間(Wikipediaによると1923年なので大正12年、延岡商工会議所四十年史によると大正11年)に旧日本窒素延岡工場の福利厚生施設として出来たのですが、1968年(昭和43)8月に旭化成工業(現:旭化成)の全額出資によって旭化成サービスとして設立、独立の事業体になったとのこと。
ザックリ簡単にいうと、大正時代に旭化成の前身である日本窒素肥料が延岡工場の従業員さん向けに日用品等を買える「社内のお店」として作ったのがはじまり。それを1968年(昭和43)8月に旭化成が子会社として独立させて「旭化成サービス」にしたという流れです。
旭化成サービスとして独立するまでは、会社の福利厚生施設だったので、「原則として」従業員とその家族に向けたお店でしたが、独立しちゃったからにはもうね、一般企業ですから!一般のお客さんにも堂々と門戸を開いてお店しちゃうぞ☆と。(じつは独立前も一般のお客さんが利用してたとのことですが^^;)
そんなわけで旭化成サービスとして独立した翌年、1969年(昭和44)3月にはじめて工場以外の場所にお店をオープンさせました。それが旭化成サービス川中店(延岡市)です。
その後も続々とお店をオープン!日向市では1971(昭和46)5月オープンの宮交バスセンターに日向ターミナルショップとして進出。高千穂町にも一店舗あったとのこと。
先述の『流通会社年鑑』1976年によると、1975年時点で延岡市内にあった旭化成サービスは恒富店(本社)、川中店、岡富店、東海店、緑が丘店の5店舗。
また『延岡商工会議所四十年史』によると川中店以外の4店舗は供給所時代から各工場地区にあったお店で、その頃から5万人近くの従業員と家族のお買い物処として賑わっていたとのこと。
延岡、日向、高千穂…いずれも県北エリアですね。なので旭化成サービス…馴染みある名前で書くと「旭サービス」が進出するのは自然な流れだなと思います。
だがしかし!都城!
県北エリアから遠く離れた県西部エリアの都市です。何故そこに出店したのか?しかも都城の旭サービスは他の店舗と比べてもひときわ大きなお店…
具体的に書くと、
【地上八階建てで地下一階にも売り場がある。しかも最上階にはティアラのごとき回転する屋上展望レストラン付き】
というお店だったんですよね。
そう、旭サービス都城店は平成元年あたりの宮崎市内のデパート群にも無い回転レストランを有するゴージャスなデパートだったのです。
それにしても、こんなゴージャスなデパートを作るなら、なぜ旭サービスの本拠地・延岡や県北にしなかったのだろうか?
その答えは、「作ってない」なのでした。
このデパート、旭サービスが作った施設ではなかったんですよね。
都城の旭サービスはどうやって誕生したのか?
2026年現在、SuperD’station39都城駅前店がある場所、そこには1995年まで旭サービス都城店がありました。20年間もの長い年月、都城の駅前デパートとして愛されたお店だったんですよね。
子どもの頃ご家族と一緒に出掛けたり、学生時代に放課後遊んだり、そういう思い出をお持ちの方が沢山いらっしゃると思います。
そんな旭サービス都城店は1975年にオープンしました。
しかし一方で、旭サービス都城店のオープン同年の1975年に閉店した大きなお店がありました。
橘百貨店都城店です。
橘百貨店は、こちらの記事で紹介したように第二次大戦後の混迷と復興の真っ只中にあった1952年(昭和27)10月21日に宮崎市で誕生したお店です。
百貨店、デパート…この言葉にキラキラした記憶が蘇る方は沢山いらっしゃるのではないでしょうか?普段使いの馴染みのスーパーとはひと味違うハレの日の場。オシャレして出掛ける、ちょっと高いけど素敵な服やアクセサリーや御馳走をゲットしちゃうお店。
橘百貨店もそういうお店として誕生しました。
2026年現在、ドン・キホーテを核店舗とする宮崎ナナイロがある場所。
1952年、そこに橘百貨店はありました。
バスや車がひっきりなしに行き交う橘通りを挟んだ向かい側に山形屋があるのは当時も現在も同じ。1952年からのかなり長い年月、この2つのデパートが宮崎の街の顔でした。
しかし、1972年を皮切りにそんな宮崎の街が劇変します。
まず、1972年10月に大阪のメジャースーパーであるイズミヤが南宮崎地区にレマンをオープン。
そして翌年1973年10月には両デパートのすぐそば、本当に目と鼻の先くらいの場所にメチャメチャ大きい宮崎寿屋百貨店がオープン。
更に同年11月23日、プラネタリウム、プール、アイススケート場まで完備されたハイテクでヤングなショッピングセンター宮交シティがオープン。
その翌年4月にも両デパートから徒歩10分圏内にユニード(のちにアピロスと改名→橘ジャスコ仮店舗→現・アゲイン)がオープン…
たった2年ほどの間に、これだけの数の新勢力(しかも全部有名大型店)が小さな宮崎市街地にイッキになだれ込んできたのです。
橘百貨店と山形屋は、この状況を乗り切るべく強力な対抗策を考えねばならなくなりました。
そんななかで橘百貨店のとった策、それが都城進出です。(山形屋のとった対抗策についても話したいのですが、長くなるのでそれはまた別記事で☆)
1972年当時、時の総理だった田中角栄氏が出したベストセラー【日本列島改造論】のなかで今後勢いを増すであろう都市として名指しされる程に注目されていた都城。
橘百貨店は宮崎市街地を飛び出して、そこに大きな新店舗を作り、宮崎本店と同じように都城の人々にも愛されるお店を作るという勝負にでたのです。そんなわけで1973年10月10日、橘百貨店都城店はオープンしました。
が、この勝負は上手くいかなかった(涙)
複数の資料を読んだところ、上手くいかなかった要因はいくつもあったようです。
都城イチの繁華街【中町商店街】から2キロも離れた場所に出店してしまったこと、
その中町商店街に、そもそもすでに都城大丸デパートとナカムラデパートがあったこと、
更に、そんな中町商店街に橘百貨店出店の一か月後に寿屋百貨店都城店が新装オープンしたこと…
うん、まぁそうなりますよね…これにプラスして実は橘百貨店と同時期、店のすぐそばにダイエーもオープンしてたとのことで、こうなるともうお客さん争奪戦がハンパないことに(汗)
中町商店街が賑わうなか、そしてダイエーも賑わうなか、どうにかお客さんに来てもらえるよう橘百貨店の人々は奮闘しますが、そんなとき最悪のタイミングでオイルショックがはじまってしまいます。
物価高による長い不景気に突入し、人々の購買意欲はガクッと低下…この状況はただでさえ客入りが悪かった橘百貨店都城店に大ダメージを与えました。そういう経緯で1975年2月28日に閉店してしまったのでした。
営業期間、たったの1年3か月あまり。
店員さんもお客さんも居なくなった閉店後のその場所には、
橘百貨店が大勝負として建てた【地上八階建てで地下一階にも売り場がある。しかも最上階にはティアラのごとき回転する屋上展望レストラン付き】のまだ真新しいピッカピカの建物だけが残されたのでした。
そう、1975年2月末に閉店した橘百貨店都城店の建物こそが、のちに同年1975年10月にオープンする旭サービス都城店となったのでした。
旭化成サービスはなぜ橘百貨店都城店を買い取ったのか?
【悪い噂はすぐ広まるけど、良い噂はあんま広がらない。】
そういう現象に出くわした経験がある方は多いのではないでしょうか?
運営は今回の記事を書くにあたり調べものをしているときに、そういう現象に出くわしました。
先述のとおり、旭サービス都城店は橘百貨店都城店の建物を買い取ってスタートしたのですが、そもそも、なぜ買い取ったのか…?
それを調べるべく複数の資料を読んだところ、それについて、当時いろんな噂が流れてたようです。
「旭化成は橘百貨店の足元みて値切って買った」とか「あんな立派な建物をビックリするような安値で手に入れた」とか…
噂だけじゃなく、今回読んだ複数の資料のなかにも「安値で投げ売りされた」っていう主旨の文章が載っている本もありましたから(汗)
当時、この資料(本)を見た人が「本にもそうやって書いてあったから本当に安く買い叩かれたに違いない!」って思っちゃったとしても不思議ではないですよね。だって本に書いてあるんだもん!
でもですね、別の資料にはこういう噂とは全く異なる話が書かれていました。
橘百貨店は都城店をたった1年3か月でやむなく閉店したわけですが、この店舗、当然現金払いで建てたわけがなく、ザックリいうと凄まじい借金が残ってしまったわけです。
まあそうですよね、一般的な住宅だってキャッシュで建てる人なんてそうそういないんですもん。大きなデパートの建物なら尚のこと。
しかも、本来ならあったはずの都城店の売り上げはもうありません。だって閉店してるからね!
借金がある。でもそれを返すことが出来ない。大変な事態です。
(この辺りの時期の橘百貨店の動きについて、本当はもっと色々あったようなのですが、詳しく話し出したらキリがないので今回は割愛します。その辺りはまた別の記事で。)
そこで、橘百貨店の社長さんたちは閉店後の1975年3月頃、延岡の旭化成サービスに都城店の買収を頼みに行ったのでした。
…というか、実はそれより半年程前の1974年夏に社長さんたちは東京の旭化成本社まで出向いて、なんとか閉店を避けたいと、融資を頼んでいました。
そのとき旭化成の社長さんは旭化成と同郷の宮崎のお店ということで、「助け甲斐がありそうだったら(融資を)考えてあげて」と自社の調査プロジェクトに都城店を含む橘百貨店の状況調査を指示したのですが、その結果はお店自体の状況も競合店との競争状況もかなり厳しいというもので、融資するにも問題山積だったようです。
そんな経緯の末、橘百貨店が旭化成サービスに頼みに来たことを知った旭化成は、その苦境を見かねて、子会社の旭化成サービスに都城店を買収させることを決定したのでした。
少なくとも、運営が読んだ本にはそういったことが書いてありました。「なんでその本のことを信じるの?ほかの本に書いてあることの方が本当かもしれないのに」という意見もあるかもしれません。しかし、この本のそれは旭化成サービスの重役の方々に(しかも実名入りで)インタビューしたうえでの執筆だったようなので、信ぴょう性は高いんじゃないかなと思います。
そもそも旭化成サービスは延岡から県北に広がったお店。「今なら立派な建物を安くで手に入れられる!」なんていう理由だけで、県北から遠く離れた都城に出店するだろうか?と思うのです。
だったらそのお金で県北側にお店増やす方が自然なんじゃないかなと…個人的な推測ではありますが、そんなこともあり、運営は橘百貨店の頼みを聞き入れて都城店を買い取ったのが真相なんじゃないのかな?と思ったのでした。
とはいえ、前述のとおり資料によって記述がまちまちなのであくまでも個人的な意見ですが(^^;
20年間、都城に愛されたお店。その歴史のなかにひっそりと存在していたもの
1975年から1995年まで、20年という年月を都城の人々と共に歩んだ旭サービス都城店。
屋上でゆっくり回転する展望レストランに、店内上階にあったというゲームセンター、そして地下の味のプロムナード。そんな様々なお店で彩られた旭サービスには、沢山の方々の記憶が詰まっているのだろうなと思います。
平成元年あたりの宮崎市内の高校生たちにとって、宮交シティや街のデパート群…山形屋・寿屋・サンリブそしてボンベルタがそうであったように…。
そして、橘百貨店都城店。
旭サービス都城店の歴史のなかにひっそりと存在したこのお店にも、様々な人々の思いや記憶が確かに存在していたんですよね。
今回は「なぜ都城に旭サービスがあったのか?」その謎を追っていたのですが、
その先には、戦後の混乱期から昭和50年(1975)までを駆け抜けていった、
「唯一の宮崎市生まれのデパート」橘百貨店。
それをめぐる当時の宮崎のこと、そこで懸命に生きていた人々が見えてきました。
だがしかし!
これについては話し出したら長くなるので、また別記事で♪
【主な参考資料】
読売新聞西部本社社会部 編『パクリ屋手形詐欺師』,読売新聞社,1977.3. 国立国会図書館デジタルコレクション
『宮崎県風土記』,旺文社,1988.11. 国立国会図書館デジタルコレクション
日本経済新聞社 編『倒産 : 構造不況に出口はあるか』,日本経済新聞社,1977.11. 国立国会図書館デジタルコレクション






