宮崎市を代表するローカルパン『ジャリパン』。
その生みの親であるミカエル堂が2023年3月31日(金)をもって、当面のあいだ休業となってしまいました。
このニュースには多くの宮崎のみなさんが驚かれたでしょうし、寂しい気持ちになったと思います。
運営陣も悲しみと驚きの気持ちでこの一報を書いたのですが、その数日後にミカエル堂さんが後継者募集をスタートしたと知り、希望を感じています(^^)
どうか良い後継者さんが見つかりますように!
ところでミカエル堂後継者募集の記事(relay)内に、貴重な昭和10年当時のミカエル堂さんの写真があるのですが、そこに記載されている住所はお馴染みの大塚町ではなく宮崎市黒迫町となっています。
平成元年あたりの宮崎の高校生だった頃はもちろんのこと、現在も宮崎在住の運営陣…
だけど、この町名には馴染みがない!
というわけで今回は、かつてミカエル堂さんがあったこの『黒迫町』という場所、そして市内の町名の移り変わりと、
更に調べているうちに発見した、『あるお店』との共通点についてもちょこっと書いてみます。
ミカエル堂のお店があった場所は黒迫町じゃなかった!?
さて『黒迫町』のことを書く前に、話がゴチャゴチャしないよう最初にちょっとご説明を。
結論から言いますと、ミカエル堂さんは大塚町に移転する前、『黒迫町』ではない場所にお店があったようなのです。
じつは、今回の『黒迫町』という町名が気になる前…
そうあれはいまから遡ること数年前、かなり昭和レトロなミカエル堂さんの広告を目にする機会がありました。
著作権の関係でその画像をココに載せるわけにはいかないのですが、昭和35年(1960)発行の『宮崎市商工名鑑1960』という本の広告でした。
でここからが本題なのですが、
そこに記載されたミカエル堂さんの住所は黒迫町ではなく、高松通1の53(ミカエル堂製パン工場)だったんです。
黒迫町ってどこにあったの?そして高松通りに高松通1丁目はない!?
それにしても高松通一丁目ってどこだ?
高松橋の近くか、街の高松通りのどこかかなぁ
などと、そのときはボンヤリ考えただけでした。
が!今回のことで、
と、メチャメチャ気になったので調べてみることに…ところが具体的な情報がなかなか出てこない(汗)
ミカエル堂さんの黒迫町での写真は昭和10年の物で、高松通一丁目の広告は昭和35年の物。
なので単純に考えると、最初は黒迫町にあったお店が、途中から高松通一丁目に移ったという感じかな?と思うのですが、
それにしたってまずこの町名の情報が出てこない!
黒迫町どころか、聞き馴染みのある『高松通(り)』という名前の時点で壁にぶつかってしまい頭を抱える運営…
よし、宮崎市の広報誌を見よう。
市広報なら宮崎市の歴史がギッシリ詰まっているので手掛かりが見つかるはず!
と、いうわけで改めて宮崎市の広報誌『みやざき市広報』(※昭和半ばまで『宮崎市広報』という名称)で高松通一丁目を調べてみたところ、すぐに色んな情報が出てきました^^
まず出てきたのが、昭和32年(1957)の情報です。
同年3月の宮崎市広報に、
宮崎県施行の区割整理に伴い町名番地が昭和32年2月23日より変更になりましたのでお知らせ致します。
引用元:宮崎市広報 1957年3月15日号外
とあり、同紙面の【町名町界地番変更調書】という表に、旧町名・番地がどんな新町名・番地に変更したのか書いてあるのですが、
そのなかに高松通一丁目一の新住所は黒迫町一丁目八〇になったという記載がありました。
さすが市広報!
- 高松通一丁目と黒迫町一丁目
あれだけ探しても出てこなかった謎地名、あっという間に2つ同時に出現したやんw
それにしても高松通一丁目が黒迫町一丁目に変わるということは、この2つは隣接していたのか!
さらに、同紙裏面に当時の地図が載っているのを発見しましたが、
黒迫町広い!しかも街のど真ん中!
黒迫町は一丁目と二丁目があったのですが、具体的には現在の中央通のかなりの部分が黒迫町一丁目だったようです。
宮崎人にお馴染みの街のど真ん中!昭和10年頃はこのあたりにミカエル堂さんがあったんだなぁ
こんな賑やかで馴染み深い場所の町名だったのか!
そして黒迫町二丁目は現在の清水一丁目・二丁目の一部に姿を変えたそうです。
そういえばあそこには黒迫通りがありますが、あれは当時の名残なのか!あんな街の中心部にあった名前が消えてしまったんだなぁ…
あと、もうひとつの謎町名のことも判明しましたよ♪
高松通一丁目は現在の高松町と千草町のそれぞれ一部に姿を変えたことが分かりました。
※参考資料:宮崎市史編纂委員会 編『宮崎市史』続編 下 国立国会図書館デジタルコレクション
2023年現在、高松通一丁目という住所は存在しないけど、『高松町』という名前は当時の名残なんですね、キット。
そして、高松町沿いの高松通りはもう読んで字の如く、当時の『高松通』の記憶を現在に伝えてくれている街道なんだなぁ。
黒迫町と高松通はいつ消えてしまったのか
さて、2023年現在の宮崎市にはもう存在しない黒迫町と高松通ですが、いつ消えてしまったのか?
これも市広報(昭和43年(1968)9月号)に情報がありました。
昭和四十一年十月二十二日いらい審議中だった中央地区(橘通以西の地区)の新しい町割りとその町名案をまとめ八月十二日、池田喜義会長は清山市長にこのことを答申しました。
引用元:みやざき市広報 1968年9月号
上記のように書いてあったので、町名を変える準備自体は昭和41年(1966)にはすでに本格的に動いていたのかな?
そして昭和43年(1968)に、当時の34町を分かりやすく整理するため23町にすべく、新たに町割りを作成したとのこと。
その町割りとともに新しい町名案も作られたということなのでしょうね。
これと合わせて、黒迫町一丁目二丁目などの町名がなくなるということが詳細地図と共に同紙面でお知らせされていました。
また、昭和49年(1974)発行の宮崎市史年表の昭和44年(1969)2月1日の欄に、
西橘通、二葉町、黒迫町一、二丁目、恵美須町などなじみ深い町名が消え、新しく「橘通西一-五丁目」「西池町」「中央通」「南高松町」「北高松町」などが生まれた
との記載があるので、黒迫町が消えたのは昭和44年(1969)2月1日ということになります。
この日はそれと同時に、皆さんお馴染みの中央通が誕生した日でもあるということになりますね。
一方、もう一つの謎地名だった高松通は、黒迫町とはちょっと事情が違ったみたいです。
じつは、黒迫町に一・二丁目があったように、高松通も一丁目から三丁目まであったんですね。
それで、黒迫町は先述のとおり一・二丁目が同時に姿を消したのですが、
高松通は、一丁目は黒迫町と同じく昭和44年(1969)2月1日に町名が消えたものの、
二丁目は一部が昭和49年9月1日まであったことが確認できました。
※参考資料: 宮崎市史編纂委員会 編『宮崎市史』続編 下,宮崎市,1978. 国立国会図書館デジタルコレクション
また、昭和49年(1974)4月号のみやざき市広報によると、三丁目は同年3月1日から大工町1・2丁目の一部、そして鶴島3丁目の一部になったとのこと。
一丁目と二・三丁目では消えるまで5年も差があったのか!
それと、鶴島3丁目という町名も昭和49年3月1日に誕生した町名で、水道局が現住所になったのもこのときだったんですね!
それまでは高松通三丁目一八一番地だったそうですよ。
町名…
今まであまり気にしてなかったけど、長い年月のあいだで相当変わってるし、いろんな歴史があるんだなぁと驚きました。
さて、高松通についてはもうひとつ。
調べていくうちに高松通一丁目にミカエル堂さんとはまた別の『宮崎市でお馴染みのお店』も存在していたことが判明しました!
これについては、またのちほど(^^)
昭和10年あたりの宮崎市街地の地図から当時の様子を見てみた
幻の町名を調べるうちに昭和12年(1937)出版の資料にたどり着きました。そして、そのなかに当時の市街地の地図があるのを発見!
※参考資料:東京交通社 編『大日本職業別明細図』,東京交通社,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション
…なのですが、こちらも著作権の都合上ココに載せられないのがもどかしい(泣)
どういう内容かというと、
昭和初期の地図というだけでも貴重なのに、詳細図が手描きで丁寧に作成されていて凄く見応えがあるんですよ。
さすがに細かい番地までは記載されていませんが、昭和10年頃の宮崎市街地の旧町名がズラリと並んでいます。
もちろん黒迫町と高松通一丁目もドーンと載ってる!
『ミルクホール キューピー』や『カフェー キング』といった、昭和初期の宮崎市街を調べてるとちょくちょく出くわす有名なお店の名前と位置も確認出来ました。ちなみに2店はドーミーイン宮崎がある大成天銀街と上野町通り付近にあった。
よし!これならミカエル堂さんが当時の黒迫町のどこにあったのかも細かく分かるぞ!
と見てみたところ、
…載ってない(泣)
ミカエル堂さんは昭和元年創業で、なにより昭和10年に黒迫町のお店を撮影した写真があるわけですから、当時絶対あったはずなんだけど…
さすがに街にあった全てのお店を手描きするというのは難易度高すぎたのかなぁ(;;)
かなり色んなお店が載っているのですが、これでも当時の老舗とか話題になってたお店とか、主要なお店だけの記載なのかもしれませんね。
街のど真ん中に牧場!?
そんなわけで、残念ながらミカエル堂さんが載っていなかった昭和12年(1937)出版の地図ですが、
※参考資料:東京交通社 編『大日本職業別明細図』,東京交通社,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション
思わぬ発見があったのです!
ミカエル堂さんと同じく、古くから宮崎市民にお馴染みのお店、白水舎の名前が、なんと高松通一丁目にある!
正確には、当時の名前である白水舎牛乳舗と記載してありました。
お店の場所は黒迫町一丁目(現・中央通)からすぐの高松通沿いで、左斜め後方には現存の林福寺(現・恵比寿通り沿い)も記載されており、そこと黒迫町一丁目を目印として現在の地図と見比べてみると…
当時の白水舎さんは、ローソン宮崎高松町店付近、または尾鈴ビル付近にあったんじゃないかな?と思います。
多分このあたりに現在の場所に移転する前の白水舎さんがあった!
白水舎さん公式サイトによると、
弊社の初代社長となる奄美大島出身の都成仲二は、26歳の時アメリカのカルフォルニアに渡りました。現地で酪農に触れ、36歳で帰国し、大正8年に宮崎市高松町で酪農をスタート。
*****
昭和10年 省令改正に伴い宮崎市大和町に移設出典:白水舎公式HP
とのことで、以前読んでそれは知ってはいたのですが、
と思っていました。
しかし!
なんとまさかの一番街と中央通のすぐそば!
高松通りのなかでもとくに繁華街に近いこの付近!
高松通り沿いのスーパーホテルpremierからの夜景。ご覧のとおり、けっこうな深夜でも人通りが多く明るい道ですが、昭和10年まで多分この辺りに白水舎さんがあった。
今は街のド真ん中ですが、当時はこの辺りに牧場が広がる景色があったのか…!
ミカエル堂と白水舎には沢山の共通点があった!
昭和10年(1935)以降、ある時期から高松通一丁目にお店があったミカエル堂。
そして創業時から昭和10年(1935)まで高松通一丁目にお店があった白水舎。
ミカエル堂さんがあった『黒迫町と高松通一丁目』という幻の町名を探しているうちに新たな発見に出くわして驚いた運営なのですが…
じつはこの両店の共通点は、かつて高松通一丁目にお店があったというだけではないんですよね。
まず、どちらのお店も創業者が『都成さん』です。
ミカエル堂さんはこの記事冒頭でお話した『昭和10年の写真』に記載されているように都成昌道さん。
白水舎さんは、これも先述の白水舎公式サイトに記載されているとおり都成仲二さんです。
以前、Twitterの白水舎公式さんが書いてらしゃったのですが、『となりのパンと牛乳』なんですよね^^
わー!ありがとうございます!
まさか白水舎さんからお返事頂けるとは!(昔からお馴染みの牛乳さんなので、まるで画面越しによく知ってるスターからお返事頂けたような感動が✨)
両店共に最初は旧住所『高松通一』にお店があったんですね(^^)
となり御兄弟が作って下さった牛乳とパン美味しいです♪ https://t.co/UvmvuFSrLt— 平成元年あたりの宮崎の高校生あるあるbot (@MiyazakiSukkii) March 21, 2023
ちなみに、運営のこのツイートでは「両店共に最初は」とありますが、これは間違いですね。このときはまだミカエル堂さんの黒迫町でのお写真を見る前だったのでご容赦ください(^^;
今回のことで色々調べていくうちに、ラッキーにも掲載可能な歴史的画像が複数みつかりましたので、ここからはその画像を交えながら宮崎市民に馴染み深い両店の歴史を少し見ていきましょう。
画像を交えながら両店の昭和史を見てみよう
まずは昭和2年(1927)の資料から。
白水舎さんが高松通にあることが記載されています。(「泉舎」となっているが誤植か諸事情と思われる。代表者名は都成仲二さん)
しかし、運営の探し方が足りないのか、ミカエル堂さんの記載は見つけられず(;;)
昭和元年創業ですから、当時はすでに黒迫町にお店があったと思われます。
出典:『宮崎市商工人名録』,宮崎市,昭和2. 国立国会図書館デジタルコレクション
昭和11年(1936)の資料でも、ミカエル堂さんの名前は見つけられなかったのですが(やはり探し方がたりないのか…)、
白水舎さんの記載はあり、住所が高松町から下原町に移っていました。
町名は違いますが、多分これは現在お店が在る場所なんだろうなぁ。下原町、すぐお隣ですもんね。
出典: 帝国商工会 編纂『帝国商工信用録』昭和11年度版 九州版,帝国商工会,昭和11. 国立国会図書館デジタルコレクション
また、昭和12年(1937)の資料で白水舎さんは、
県立私立各病院御用達 白水舎牛乳舗 高松通一
引用元:東京交通社 編『大日本職業別明細図』,東京交通社,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション
と記載されています。
宮崎市内で50年以上の長きに渡り、給食の牛乳としてもお馴染みの白水舎さんですが、昭和初期にはすでに病院に入院されている方々の大切な栄養源としても活躍していたんですね^^
そして学校給食、学校のパンといえばミカエル堂さん!
学校のパンと牛乳。
宮崎市の学校に行っていた者にとって、いちばん大きな白水舎さんとミカエル堂さんの共通点はコレですよね♪
ふたつのお店が揃って登場!住所について発見と戸惑いが…
さて、こちらも昭和12年(1937)の資料。
同年出版ですが上記とは別資料で、当時の宮崎商工会議所から出版されたものです。
こちらにはミカエル堂さんのお名前もシッカリ載っていました。さすが地元出版誌!
出典: 『宮崎県商工人名録』昭和12年版,宮崎商工会議所,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション
両店ともに創業者『都成』さんのお名前が記載されていました。
白水舎さんがツイートされていたとおり、『となり(都成)』のパンと牛乳ですね(^^)
住所はそれぞれ、
- ミカエル堂(黒迫町一)
- 白水舎(高松通一)
と書いてあります。
ここでようやくミカエル堂さんが黒迫町のどのあたりにあったのか、新たな情報が入ってきましたね^^
黒迫町のなかでも特に繁華街の黒迫町一丁目!ミカエル堂さんは、なんと現在の中央通にあったんですねー!
さて…しかし、白水舎さんについてはちょっとややこしいことになってきました。
お気付きの方もいらっしゃるかな思いますので、白水舎さんの昭和12年(1937)の住所については、ここで少し情報整理と運営の個人的な考えを書いてみます。
先述のとおり、白水舎さん公式HPの沿革には、
昭和10年 省令改正に伴い宮崎市大和町に移設
出典:白水舎公式HP
との記載があるので、大正8年(1919)から15年ほど高松通一丁目にあった白水舎さんは、昭和10年(1935)に現在の場所にお引越ししています。
そして、これも先ほど画像で見て頂きましたが、昭和11年(1936)の資料でも住所が下原町になっています。
ですが、今回見つけたふたつの昭和12年(1937)の資料では住所が高松通一(大日本職業別明細図の地図では高松通一丁目)となっている…(汗)
※参考資料:東京交通社 編『大日本職業別明細図』,東京交通社,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション
とはいえ、公式発表がいちばん信ぴょう性があると思うので、白水舎さんは昭和10年に現在の場所にお引越しした!はず!!!
というわけで、昭和10~12年の白水舎さんの住所については、ちょっと情報がゴチャっとしてしまいましたが(^^;
昭和14年(1939)の資料では宮崎駅東となっているので、
なんにしても、この頃にはもう引っ越し後の現在の場所で営業されていたのが分かります。
出典: 帝国商工会 編纂『帝国商工信用録 : 分冊』昭和14年度版 [宮崎県,長崎県,福岡県,佐賀県,大分県,熊本県,鹿児島県,沖縄県],帝国商工会,昭和14. 国立国会図書館デジタルコレクション
ちなみに令和5年(2023)現在の白水舎さんの住所は昭和14年(1939)と似た町名の『宮崎駅東3丁目』ですが、
平成元年あたりはこの辺りって大和町だったんですよね。
手持ちの平成元年あたりの広告にも大和町って書いてある。
地名、気付かないうちに結構変わってるもんなんだな…
それにしても、昭和14年の時点で既に『創 二十年前』と書いてある白水舎さん…凄い老舗だなぁと改めて思いました。
大正8年(1919年)創業だから宮崎『市』より5年も先輩なんですよ!※宮崎市制施行は1924年4月1日
100年以上の長い歴史の中で、宮崎市誕生も町名の移り変わりも全て見てきたお店…凄いです。
まさかそこにミカエル堂があったとは…
さて、少し脱線してしまいましたが、話を両店の歴史に戻しましょう。
昭和14年(1939)以降、終戦までの資料で両店の情報を得ることは出来ませんでした。
終戦のあとで最も古い資料は昭和29年(1954)の市広報。
ミカエル堂の創業者である都成昌道さんのお名前と橘高松通という住所が記載されています。
※参考資料:宮崎市報 1954年1月号
ということは!昭和14年(1939)に黒迫町一丁目だったミカエル堂さんは、昭和29年(1954)には高松通にお引越ししていたということじゃないかな?と思います。
そして、これ以降の資料が、当記事冒頭でお話した昭和35年(1960)の『宮崎市商工名鑑 1960』です。
※参考資料:『宮崎市商工名鑑』1960,宮崎商工会議所,1960. 国立国会図書館デジタルコレクション
こちらには、ミカエル堂パン事業協同組合 高松通1‐53という名簿と、学校給食指定工場 ミカエル堂製パン工場 宮崎市高松通1の53と書かれた広告の2つが載っていました。
学校給食!!!
いよいよ我らが購買のジャリパンとのつながりが出てきましたね^^
ミカエル堂さんのパンが学校給食に登場した時期についてはいろんな情報がありますが、少なくとも63年前には既に学生たちの手元にあったんだなぁ…
ミカエル堂さんの後継者募集記事が掲載されているreley内でも書かれていましたが、最初はバタークリームロールだったパンがジャリパンという名前に変わっていったのも学生さんたちがそう呼んでいたから。
名付け親は宮崎工業高校の生徒さんたちらしいですよ^^
ミカエル堂のパンと宮崎市の学生たちの歴史はずっと共にあったんだなぁと、先述の広告を見てしみじみしてしまいました。
さて、この『宮崎市商工名鑑 1960』について補足情報をひとつ。
こちらに載っている2つ資料ではミカエル堂さんは創業昭和2年となっていますが、
ミカエル堂さんの公式発表では昭和元年創業とのこと。
先ほどの昭和12年の白水舎さんの住所といい、何らかの事情で、こういう誤表記みたいなものはちょこちょこ発生しちゃうものなのでしょうね(^^;
そうそう白水舎さんといえば、この資料での記載は何故か見つけられず(汗)
この頃にはすでに創業40年以上!そして現在の場所にお引越しして20年以上経っている頃ですね。
次は上記資料から5年後、昭和40年(1965)の資料です。
こちらでも白水舎さんのお名前は見つけられなかったのですが、ミカエル堂さんについては大きな情報を得ることが出来ました。
ミカエル堂創業者のお名前が、下の2つの組合の欄に書いてあったんです。
■宮崎県製パン(協)高松通1丁目53
※参考資料:『宮崎県中小企業等組合名簿』内の(協同組合)1.活動組合の部 宮崎市製造業(10)食料品工業 昭和40年3月31日,宮崎県経済部商政課,〔1965〕. 国立国会図書館デジタルコレクション
■ミカエル堂製パン工業(協)高松通1丁目55
※参考資料: 『宮崎県中小企業等組合名簿』内の(休眠組合)1.協共同組合の部 宮崎市製造業(10)食料品工業 昭和40年3月31日,宮崎県経済部商政課,〔1965〕. 国立国会図書館デジタルコレクション
両組合ともに代表者名に都成昌道さんのお名前があるので、ミカエル堂が当時の両組合の代表だったのだなと分かります。
しかも高松通1丁目53だけではなく55にもミカエル堂の名前があるということは5年前の昭和35年(1960)より大きなお店に成長してる!?
なんにしても、この当時にはもう宮崎に欠かせないお店になってたんだなぁ。
最後に昭和52年(1977)の資料をご紹介します^^
この資料では(有)ミカエル堂という記載を発見!住所は高松町3‐25となっていました。
※参考資料: 宮崎県商工労働部商工振興課 [編]『宮崎県工場名鑑』,宮崎県商工労働部商工振興課,1977. 国立国会図書館デジタルコレクション
おおっ!この町名と番地は現在もあるのでは!?
早速グーグルマップで調べてみました!
なんと!昭和10年あたりまで白水舎さんがあったと思われる場所と重なる!!!
グーグルマップでは、ローソン宮崎高松町店と尾鈴ビルのちょうど中間にあるHIBIKIパーキングの住所として紹介されていました!
先述でご紹介したreleyの記事内で、昭和61年にお馴染みの大塚町に店舗を移転したと書いてありましたし、それまではここにミカエル堂さんのお店とパン工場があったのか…
しかもミカエル堂さんの前は、ここに白水舎さんがあった。
宮崎市のふたつの老舗…
しかも宮崎市で育った数えきれないくらい多くの学生たちにうんと馴染み深い、
ふたつの老舗。
このふたつのお店の大きな共通点を知って、驚いたしなんだか嬉しくなりました。
昭和61年(1986)より少し前、つまり昭和末期まで、こんな繁華街にミカエル堂さんのパン工場があったんだなぁ
…と、ここで思い出しました!
HIBIKIパーキングの隣!
現在『八』の看板が出てるたこ八中央店の場所!
あそこに少なくとも2010年まではミカエル堂さんの支店があったんですよね。すっかり忘れてた…
あそこ、キット大塚町に移転するまえにあったお店の名残だったんでしょうね。
なんだか色んな点が線となって繋がったようで、感慨深いです。
最初は聞いたことない『黒迫町』と、聞いたことあるけど見つからない『高松通』という町名が気になったという、ちょっとした好奇心から書き始めた当記事。
気付けば一万字越えのメッチャ長い記事になってしまいましたw
話がアッチコッチに飛んでしまったりと読みにくい拙筆ですが、もしここまでお付き合いくださった読者さんがいて下さったなら心から感謝します!
どうか目を休めてくださいね(^^;
でも、拙筆だけど今回の記事は書けて良かったなと感じています。
黒迫町、高松通、ちょこっとだけど白水舎さんのこと、そしてミカエル堂さんの歴史も、書き残しておかないといずれ消えてしまう。
これは今回に限ったことではなくて、様々な物事の記録は誰かが残していかないと、運営が黒迫町を知らなかったのと同じように、いずれは皆知らないという状態になってしまう。
だから我々は、自分たちの大切な思い出が詰まっている『平成元年あたりの宮崎』のことを書き残しているんだと思います。消えてほしくないからね~♪
そしてミカエル堂さんという、宮崎でほぼ100年という長い長い時間沢山の人に愛されてきた大切なパン屋さんも、残さないと消えます。
消えたら、もうお店もあの味も、同じものは出てこない。
どうか、ミカエル堂さんに良い後継者さんが見つかりますように。
それを強く願っています。
☆オマケ☆昔の宮崎市中心地について
ここからは、今回の記事を書いている途中でみつけたオマケのネタを置いちゃうコーナーですw
ご興味がある方はお付き合いくださいませ♪
橘通り、昭和中期までは各丁目の場所が全然ちがう
昭和10年あたりはもちろんのこと、昭和中期(1960年代)までの宮崎市街地って、現在どころか平成元年あたりの地図と比べても、お馴染みの場所の名前や位置が相当に違っていて、頭が混乱しましたw
とくに橘通り!!!
戦前の昭和10年の地図ならまだ分かるけど、先述の昭和32年(1957)宮崎市広報の地図でも現在と全然違うんですよ。
まず、現在はもう無い橘通6丁目がある。
しかもデパート前の交差点、あそこ当時は橘通5丁目だったんですね!
そして現在の橘通3丁目あたりは昔は5~4丁目だったのか…
じゃあ3丁目はどこだったのかというと、現在の2丁目あたり。
橘橋のたもとが1丁目なのは現在と同じで(詳しく書くと東西が付いてない、現市役所の場所は上野町3丁目だった等いっぱい違いはあるけど…)、1丁目と2丁目の境界も同様に県庁通りなので、
これは当時小さかった2丁目界隈が、区画整理をしていくなかで大きくなり、それによって3丁目から先が江平側にずれていって現在の橘通りの各丁目の位置になったということなのかな?と感じました。
(今回資料を見たばかりのド素人なので、間違ってたらすみません^^;)
昭和12年の山形屋ってそんなトコにあったのかー!
今回調べものをするにあたり、国会図書館デジタルコレクションにもかなりお世話になったのですが、
昭和12年の『宮崎県商工人名録』は、当時の宮崎のお店の広告や写真が複数載っているのでご興味あるようでしたらオススメですよ!
国会図書館の資料だけどログイン無しでも見られる貴重な資料です^^
(下の写真は同資料内の当時の『橘通ノ一部』の写真)
出典: 『宮崎県商工人名録』昭和12年版,宮崎商工会議所,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション
そしてこちらは同資料内の広告。
ボンベルタどころか前身の橘百貨店や寿屋より前から存在していた、宮崎市街地の重鎮山形屋。
出典: 『宮崎県商工人名録』昭和12年版,宮崎商工会議所,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション
昭和12年当時は今の場所じゃなく、旭通1丁目にあったのか!
当時の地図を確認したところグリーンリッチホテル辺りだったようですよ。(正確には山形屋が買収する前の丸三呉服店が表記してあった)
今回はココまで!
ですが、また思いついたらオマケを追加するかもしれません(^^)